霊的現象-1
霊的現象-2
霊的現象-3
霊的現象-4
霊的現象-5

その一:昭和3年1月二十五日 ある信者の言

昭和三年一月に十五日夜、天津神様(宇宙の大気)が、沖洲の御神殿(熊本県玉名郡長洲町上沖洲八十三番地)に御光臨なさった。翌二自由五日から、祖神様は、宇宙の大気と殆ど同様の御力を発揮され、宇宙にある事項を細大もらさず、明瞭に識別される様になられ、全く全知全能の力を現された。 それまでの御神殿の祭り方は、普通の祈願所と同様に神前には、大燭台、赤い灯籠が在り、神殿には、大きな榊立てに、榊がいけて在った。五色の幕が張られ、提灯が一対下った、その横には、太鼓が在った。
昭和三年一月に十五日の夜、天草から参拝して居た婦人が、突然あばれ出して、神前に在った物をことごとく投げ出してしまった。これを見た周囲の男達が、 この婦人を取り押さえ様とかかったが、ことごとくふっ飛ばされてしまい、三、四人一度にかかっても、この婦人を取り押さえることはできなかった。やがて、その夫人が改まって「ここは宇宙の大気の神殿である。国つ神の祭り方をしてはならない。供え物は必要ない。真実をもって御願いせよ。」と厳粛な御言い渡しがあった。祖神様は、慎んで拝承されて居られた。 このことがあってから御神殿には、何の飾りも無く、清々しく厳かなものになった。これは、神様の気が、この婦人の体を借りられて、神払いされたのである。人間が、何人かかっても取り押さえることができなかったのは、当然であった。

その二:昭和3年 ある信者の言

人を殺すと法律で処罰されるが、悪知恵にたけた者は法の網をくぐり、証拠湮滅し、罪を逃れる事がある。然し天の網は決してのがれる事はできない。霊の復讐がこれであり、人は法律の復讐は恐れてもこれを軽く見ている。祖神様は

真に恐るべきは、むしろ霊的復習にある。加害者は無論、その子孫三代の間は、必ず不治の霊患が突発して、悲劇の歴史を刻む事になったりする。

と教えられ、多くの参拝者のうち、この因縁の為、重病となってお願いに来た人を、数十人知っているがこの様な者には、

貴方は私の力ではだめだ、医者にかかりなさい。

と仰せになり因縁となった訳は仰せにならずご自分の力不足で治らないと思わせて、お断りになられ患者が帰った後、「今のは因縁ですか」とお尋ねすると、

それがわかったか。

との一言だけで、容易に因縁を明かすことはなさらなかったが、時にはその因をお話になった事もあった。
熊本市城南町のLさん一家は、数代続いて不思議な病死者が出るので、その老母がお願いに来た時、祖神様は深い嘆息を漏らしつつ、これを聞いた老母は後で私達に「百年以前の事を全部あてられた。恐ろしい生き神様だ。私の家は、身分ある細川藩士で、今から数代前の先祖が、 妾が妊娠し、もうすぐ生まれますから、お手当を下さいと、お金の無心に来たのに立腹し、己埓者と切り捨てた上に、竹槍でお腹の子まで突き刺して殺し、平民の妾を虫けら同然に扱う冷酷な仕打ちをしたことが原因の破滅で、その後数台、不幸不運の連続で、今も家人が瀕死の病床にあるので、お願いに来た。この百年前の事を、目の前に見ているように話され、思わずゾーッとした。偉いお方だ」 と深く感嘆した。

その三:昭和3年 ある信者の言

熊本市に住む私の友人の妻は、日頃から神通力ありと自称し、他人の病気を治した事もあるが、その状況がどうも狐つきらしいので、私が勤めて同伴、御神殿に参拝した。
祖神様が面前に座って妻女を、眼光鋭く二、三分間睨んで居られると、始めは、生神こそ狐つきだろう、等と言って威張っていたのが、段々大人しくなり遂には泣き声を出して、畳の上に突っ伏し、頭を上げなかった。

狐の方身を打っぱいでやった。

と仰せの上、立ち上がられたら、今迄伏していた妻女が起き上がって、ケロリとした風で全く普通の人と同じになった。
一種の通力を有する狐霊も神霊にあっては、平伏するのみで、霊界の位は誠に整然としている者だと感じた。

(付言)狐つきは、一種の病者であるが、医薬では治らず病苦に悩む一方では、狐の年に相応した通力を持っている。

人間は死んでからは年を取らぬが、動物は死んでも霊が年をとる。

と仰せの様に、その狐の年の間の事即ち、その間の過去のことは解るので言いあてたりする。然し未来の事は本当は解らぬとのことなのに、予知したりもし、又、狐つき相互間では、年の多い方が上で、威張る。

その四:昭和3年 ある信者の言

狐つきの患者が祖神様の御面前に座ると、忽ち異様な恐怖状態となり、手を振り体を震わせて劇しく動いたりたりする。奇態を示し、遂には悲鳴を上げ、自白する。狐つきが参拝した時、祖神様は、御幣をもって患者の体を軽く叩きながら、

これでも白状せんか、白状しなければ許さんぞ。

と責められると、苦痛に耐えきれない様子となり、遂にはしゃくりあげつつ、「私は○○山の○○という狐で、年は本年何歳です。○○村の○○という者に頼まれて、この人に乗り移った、もう苦しいからどうかお許し下さい。」と叫び、

よく白状した、それでは許す。

御幣の手を止められると、夢からさめた様に普通の様子に返り、ニコニコして御礼を言い引き下がった。この人に、今迄のことは自覚があるかと尋ねると、何もかも覚えている、夢を見ているのと同じで、しゃべった事も覚えているが、 今の私と、あの時しゃべっていたのは、別人です、と答えた。

この追究で七転八倒したのは、患者の体中にある狐霊そのもので、それより優れた神通力で征伐するから、あの有様になる。

と仰せであった。
狐つきの為参拝した多くの者は、三日から一週間位で狐霊を体外に追い出され、健康になった。

その五::昭和3年 ある信者の言

大牟田市屈指の実業家S婦人が狐つき状態となって、参拝し祖神様の御手数を頂いている時、この人を向こうむきに座らせて背後から、御手の笏を上下左右に振り動かされると、前にいる患者が、これに合わせて、同じ動作をした。

狐霊を自由自在に操縦している、私の有する力は、宇宙間最高の神霊力であるから、狐霊を自由に扱うことは何でもない。

その狐霊は、「偉い神様だ、ここの神様は、神様の中の王様だ」等と云っていた。

その六:昭和3年 ある信者の言

或る地方の有志が、長い間胃癌に悩み、食事をとることも一切不能となり、家族が代参しお願いをした時

よし、胃の方は直してやるが、余病が突発したら命は保証できない。

と念を押されて数分間御手数なさった。その日から食物の摂取が自由になったので、病人も家族も一命を取り止めたかと喜んだが、五日後突然心臓麻痺を起こして亡くなった。後日家族が、あの胃癌は直されたが、御言葉道り余病で死んだと語った。

その七:昭和3年 ある信者の言

祖神様から、私は一本の御幣を頂いた。先日私の子供が三十九度以上も発熱し、苦しいというので、祈願してこの御幣を振ると、五分も経たないうちに、忘れたように下熱した。驚くべきことで、御幣を振る私の手は、俗臭紛々、罪の手であり、 心は煩悩に乱され、魂はおそらく濁っていると思われるのに、病気が治ることは、私の力ではなく、御幣にこもる、偉大な祖神様の神霊の力であるとしか、考えられない。それからは家族や近親が病気になると、大払いの祝詞を挙げながら、これを振ると忽ち治るので、 「これは偶然でしょうか」と伺うと

治るはずだ。

と一言仰せであった。

その八:昭和3年 ある信者の言

病気の原因には、因縁と障りと肉体の三つがあり、そのうち障りが一番多い。

との仰せで、その障りに属する霊の障りの中で、つきものと称する病気には、神経痛、てんかん、チブス、流感、狐憑き等の症状として出るものがあり、多くは慢性病となっている。これらの患者を、祖神様は一回から三回の御手数で憑霊を取り除かれ、お治しになる。然し 総てを一回ですっかり治される御力がありながら、何故二、三回かかるかをお尋ねすると、

それも皆、天地の分霊である、その生存を尊重しなければならない。

深遠な愛情からなるべく憑霊が、自ら人体外に退散する様に、はからわれる御様子で、あく迄、勧告に従わない場合は、最後の手段である霊殺の方法をとられるとの事である。

その九::昭和3年 ある信者の言

下益城郡のK氏婦人は憑いている狐霊が祖神様の御手数に堪えられなくなって、「明日は必ず離れます」と、約束した後で、その態度一変し、いよいよ明日は山に帰るから、今日は御馳走の喰いじまいだ。山の中では美味しいものはない。水を飲むのも、落ち葉をかき分けて、 掌で飲まなければならぬ、お別れに酒を飲ませろ、菓子をおごれ、と、平素しとやかな夫人とはうって変わった態度に、居合わせた一同、口アングリであった。

その十:昭和3年 ある信者の言

昨年十月十五日狩猟解禁の日、八代駅で四羽の鴨を買って、一羽を熊本の自宅に置き、三羽を持って長洲に参拝し、神前に供えた時、祖神様は私を観て、

鴨は好きか。

「大好きで今日も一羽家に残して来ました。帰って食べます」と、お答えすると、一言、

そうか。

と仰せであった。帰宅して食膳の鴨汁を食べようとすると、一種異様な悪臭が、鼻をついて食べるどころではなく、子供達を見ると不思議にも、うまいと平気なので、これは鳥を食べるな、とのお知らせと思い、食べるのを止め、 翌朝早く参拝して、この臭気のことを申し上げると、ニコニコなさり、

これからは、牛肉も食えなくなる。

と仰せになった。その後私はこれ迄、大好物であった、肉や鳥類が見るも嫌いになり、一切喉を通らなくなった。この鴨を神前に供えたことが動機であり、お願いをした事ではない。又、本年始め頃、

牡蠣や、はまぐり類には荒魂がない、野菜と同じ様なものだ。

とお話になったので、好物のカキフライは差支えないと思って、食べてみると二日間も猛烈な下痢をする有様で、生き物を食べる事を、神様から止められたのであった。

(付言)神仕えをする者は、精進をしなくてはならないことの、神はからいである。

 
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